昨日の人口減少予測に端を発した、秋田をはじめ、男鹿をはじめ、これからどうゆう方向性に動いていったらいいのか。
今後、10年と待たずに、日本の田舎は厳しい状況に追い込まれるのは確実です。
男鹿に限って言えば、もう今だって相当厳しい状況ですので、これが悪化していった場合に、どんな状況になるのかは想像もつきません。

では、どうしようかというった場合に、前回の更新で、こんなことを書いていました。

<--以下、前回の更新から引用


1.自給自足のライフスタイルへの転換と基盤化

特に1.の自給自足の生活を基盤化していくことは急務だと感じています。
食料生産は、生きるための基本であり、誰しもが何かしらの食料を生産していけるようにならないことには生きていけません。
30年後には経済的には成り立たない世界が待っているので「お金」では生きていけません。
「食料」を自ら作ることが重要なのは自明です。
今は、食っていけないといわれる農業が、その頃には立場が逆転している可能性もあります。

農地の問題など、誰しもできるわけではないですが、家庭菜園レベルでも構わないので今からでもスタートするべきです。
その方向に可能性を見いだせるなら、スケールアップをしていくコトもできますし、自分には無理だとなれば、食料生産を行える人との関わりの中で、食料を手に入れる手段を考えないといけません。
自分の中に、なにかしら他の人に提供できるスキルを見出して磨いていかないといけません。

-->引用ここまで



先人の知恵を取り入れることの可能性



「自給自足」というのは、かなり見込みのあるキーワードだと思っています。
実は、一昨年から、とある協議会の調査や活動に関わっていて、男鹿に過去に起こった災害について調査を担当させてもらった事があります。
そこで調査対象になった年配の方々からは昭和14年の男鹿地震のことをよく聞かせていただきました。
特に五里合、北浦のあたりで甚大な被害があったようで、男鹿全体でも家屋倒壊を始めとした被害が出ていたと記録にも残っています。

それだけの被害を受けながら、ほとんどの方々は「食べるものには困らなかった」というお話をされています。家が倒れ、田んぼが崩れ、死傷者が発生し、それでも食料には困らなかった秘密はなんであったろうか、非常に興味を持ちました。

しかし理由は非常にシンプルなものです。
もともと食べるものは全て自分達で賄ってきいたのだから、地震で集落が孤立しようと、電気が止まろうと、家が倒れようと、食料が消えてなくなるわけではないので、食料には困らなかったのです。
考えてみれば当たり前でした。
当時の生活において「流通」によって入ってくるモノは、ほんの僅かで、全ては地域の中での生産物で、地域の食糧事情を支えていたわけです。

脆弱な「流通」システムに頼る危険



「流通」システムの中で生活している現代の私達は、先の大震災で、ほとんど直接的な被害が無かったにも関わらず、「流通」が途切れたせいで、日常生活が立ちゆかなくなることを経験しました。
これは、どんなに「流通」システムが発達しようとも、コストと効率を優先し、より安く、より早くモノを届けることが命題である以上、避けられない事態です。
東北で起こった大震災で、これだけ影響があるのですから、仮に首都圏を中心に大震災が起こった場合に、今回よりもより長期間に渡って「流通」が途絶するのは間違いありません。
また、将来経済的に成り立たなくなった地域では、「流通」に頼るだけの経済力を持てない可能性すらあるわけです。

「流通」を排除する必要はありませんが、「流通」が途絶えた場合でも生活していけるような仕組みをライフスタイルの中に取り入れていく必要があるのはずです。
それは「防災」という観点だけではなく、「生きる」ということの可能性を最大化するためにも必要なことなのではないかと考えます。

新しい自給自足



もちろん、昭和14年の頃の、貧乏な暮らしに戻りましょう、というつもりは全くありません。
懐古趣味で話をしているわけではありませんので。

まず、大きな可能性があるのは「自給自足」は「美味しい」というコトです。

何しろ、産地で採れたものを、産地で消費するのですから、新鮮で美味しいというのが、まず基本にあります。
また、便利な料理器具も無かったために、料理は非常に手間がかかるのですが、その代わり、シンプルな料理がこれまた非常に美味しいのです。

ちょっと話題がそれるかもしれませんが、七輪と土鍋でご飯を炊いたことがある方はどのくらい、いらっしゃるでしょうか?
火を見ていないといけないので、ずっと付きっきりになるのですが、出来上がったご飯は、どんな高級炊飯器で炊いたご飯よりも美味しいのです。

だからといって、普段から七輪と土鍋でご飯を炊くわけにはいきませんが、このスキルを身につけ維持することをテーマに、いろいろなコトが考えられます。
例えば、新米が出回る前、残っている古米を皆んなで持ち寄って、土鍋炊飯をして仲間内でパーティーを開くであるとか。
もちろん、それだけではさしたる意味もないですが(十分楽しいとは思いますが)、それを観光客を始めとした外から来た人に提供できないか?
土鍋炊飯をしたご飯を外食、中食として商売することはできないか?

ちょっとアイディアとしては安直ですが、そうした方向性で発展させていくことに可能性があると思っています。
「流通」によって「コスト」と「物量」は満たされますが、最も人間の感覚に訴えかける美味しさという「品質」には満足していないはずなのです。

「自給自足」で「コスト」と「物量」を凌駕する



このように「自給自足」で満たされるのは、経済優先で満たされる「コスト」「物量」とは、別の方向性のものです。
つまり直接競合するわけではない以上、現在の「流通」システムのサブシステム的に存在しえるものだと思います。

今、こういう話をしても積極的に反応してくれる人は僅かであるとは思います。
ですが、何によって満たされれたいかは、満たされてみるまでわからないのが人間です。
満たされていみて、はじめて、これが必要だったんだ、という認識を持つのです。

この「自給自足」を足がかりにした取り組みは、従来の経済活動を凌駕するだけの、新しい可能性を秘めていて、今まさに動き始めようとしている、と感じています。
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