Skip to content →

ナマハゲの本質とは

基本的に
「世の中にはたくさんの不条理が存在していて、遅れて生まれてきた我々は、選択の余地なくそれを受け入れなければならない」
というコトに尽きると思う。
そのために、子供や嫁は、不条理な怒号や糾弾に耐えなければ歳を超すことができず、理路整然と反論することも許されない。

つまりは、不条理の象徴。

それは人間の社会生活においてもそうであるし、自然災害による人の生き死にに関してもそう。
自分個人で形成される部分というのは、とても小さな部分でしかなく、多くは他の人間や自然とのかかわりの中で不条理な環境で生きていくこと強要される。

そもそも、神様であるとか、子供や嫁の躾であるとか、ありがたいものだとか、いろいろと理路整然な説明がなされてるものの、子供のころに、その不条理な存在に、しっだけ泣かされてきた人間にとっては、どの説明もが胡散臭く感じられる。
というか、その説明のすべてが後付けであって、自分らが子供のころ、あれを神様だなんていう人は誰もいなかった。

道筋立てて怒られるんなら、躾だの、神様だの言うのもわかるが、基本的になまはげの中の人は、ただの地域の兄ちゃん(oe父っちゃ)だし、かつ、各家で酒を呑んできてる酔っ払いだ。
神社からおりてきて直ぐに回る家であれば、まだ冷静に暴れてるかもしれないが、町内一周して帰り道の最後あたり(うちがそう)にくれば、モノは壊す、あたりは散らかす、何を怒鳴ってるかわからないような状態。
「怒られる」のではなく「脅される」という方が相応しい。

あれが有難いもので、きちんと躾に効くようなら、男鹿の何かしらの数値(学力テストが良好、街中にゴミがない、嫁がパチンコに行かない、等々)に現れるはずだが、そんな話はとんときいたこともない。

観光と教育の面では、そういうモノでなく、神様であることにしておきたい気持ちはわからなくもないし、実際最近は家々を回るなまはげ(かなり数が減ってる)自体が、とてもソフトでマイルドらしい。
握手をしたり、頭をなでたりするそうだ。
普通は神様だって、そんなことはしないと思うのだが、もはや神様を通りこして「ゆるキャラ」への転身が目論まれてるのかもしれない。

最近は、ほんとに秋田のいろんな場所に出没するし、なんの所縁もないお花の名前に使われたり、本質とはずいぶんとかけ離れた存在と扱われてしまっている。
こうしたモノは、見た目そのままの姿に意味があるのではなくて、それを見る側の心の内側に本質があるというのは当たり前のことなはずなのに、誰もそこ(つまりは見る側の心の中)には目をやらない。
ただ、インパクトがあるのが欲しいっていうのなら、まぁ、勝手に使ったんさい。


— ads by google —

Published in ナマハゲ 答えなど無い 雑記

Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。