大量生産品を大事に長く使う

っていうのが好きですね。

プレミア品でも、限定生産品でも、フラッグシップモデルでもなく、別段変わったことのない大量生産品。
お値段もフツーというか、むしろリーズナブルなやつ。

どっかの工場ラインの上でフツーに組み立てられて、フツーに流通して、フツーに店頭販売されたやつ。

そーゆー何の変哲もない工業製品を、大事に、しつこく、ながーく使い倒すのが、ほんとに好きです。

G-SHOCK G-7710

というわけで、10年ぐらい前に買ったG-SHOCKが、冬越したら電池切れしてたので1,080円で電池交換してきました。

仕事帰りにデパートかどっかで見かけて、黒地液晶がちょいとカッコ良く見えて、お値段も1万円ぐらいでリーズナブル。

ちょうど前の時計を破損させてしまってたので、その場でお買い求めした時計。

G-SHOCKですから防水だし、耐衝撃設計だし、まぁ樹脂が劣化でダメになるまでは、そうそう壊れることはないはず。

もう10年くらいは、フツーに使えるんじゃなかろうか。

特別な一台じゃないけれど

特別な一台だったら、みんな大事にしますよね。
周りの人に、ちょい自慢しつつ。
それこそ時計なんて、既にステータスを示すだけが役割みたいなもんですし。

でも、何のこともない大量生産品のこの一台を大事にできるのは自分だけなんですよ。
おそらく自分が手放せば、安物の中古品ということで、悲しい末路を迎えるのが想像できてしまいますし。

この一台に、その役目を最後まで全うさせてあげるためには、自分が最後まで使ってあげるしかない…

そんな感じです。

コンサルの方々が博識な理由が分かりました

いや、たぶん、コンサルの方々との付き合いが多い皆さんは先刻承知のコトなんでしょうが、今日それを実感する場面に遭遇しまして。

たまたま別件の集まりに呼ばれて(片方は仕事する側でした)、同じコンサルの方のお話を二日続けて聞くという機会がありまして。

そこで、二日目のお話のなかで、アドリブっぽく話してるところで、前日の集まりの中で参加者(私なんですが)が出したキーワードが2回ほど、登場しました。

あぁ、そっか、そりゃそうだよなぁ…と、ひとり得心していたという。

別に、パクリとかそーゆーレベルの話じゃなくて、アイディア出しのような作業に多く関わる人は、様々な場所で、いろんな人のアイディアに触れるわけだから、そのぶん、どんどん経験値がたまっていく。

自分の地域のコトを、いつも同じ面子で悩んでたって、いいアイディアには結びつかないけど、こーやって各地でいろんな人と関わってれば、そのぶん、いろんな引き出しが使えるようになる…と。

ごもっともな話です。

ただ、アイディアなんていうのは、実践して結果まで出して、初めて意味が生まれるようなもので、アイディア出しに優れているコト自体はそんなに大きなアドバンテージでもないのかな。

初めの一歩の手助けにはなるでしょうが。

大事なのは、情熱とか、熱意とか、圧倒的にそっちです。

問題児きどり

あるいは、反逆者気分。

はたまた、革命家かぶれ。

世の中の主流派に対して、反旗を翻すってのは、ちょっとカッコよく見える部分も確かにある。

実際、ネットでちょっと検索すると、そーゆーのが溢れ出てくてる。

マスコミのニュースショーもたいていそんなもん。

ただ、大半の人たちは「言うだけ」「(いいねを)押すだけ」「SNSに書くだけ」で終わってるんですよね。

まぁ、それがガス抜きになって、現実世界で平穏無事に暮らしていけるなら、それはそれでもいいんです。

ただ、今現在、世の中で主流になってない、多くの人に知られてない、マイナーな存在の価値を、もっと広めたい、伝えたいっていうなら、それだけじゃダメだ。

ネットの中でのガス抜きや、内輪受けだけに留まっちゃいけないと思う。

動かなきゃ。

いや、バリバリ失敗しますよ。

ネットと違って、現実世界は、現実の利害が絡みますし、意見が同じ人だけが集まってるわけでも無い。

みんな「いいね」は簡単に押すけど、現実世界で協力してくれる人ってのは、ほんの僅か。

場合によっては孤立無援ってこともあるだろうし。

だからとって、今までの価値感に黙って従って生きるのも、それはそれでつらい。

過去に先人によって作られた価値観が、時代との不整合をおこして、今を生きる人を苦しめてる事だった多々あるんだし。

少なくとも日本においては、今は大きな転換期で、ここで旧来の価値観にしがみつくのは生死にかかわることだってある。

というわけで、とにかく動く。

自分で、自分の旗を立てる。

旗を立てて、みんなに見られながら、動きまくる。

自分が良いと思える価値観に従って、少しづつでもいいから。

それが良いと思える人は寄ってくるし、悪いと思う人は離れるだろうし。

無理に押し広げていく必要は無くても、共感した仲間は必ず集まってくるはずだから。

ネットで言いっぱなししてるだけじゃ、自分も、世の中も何も変わっていかない。

問題児きどってるだけじゃ、ちっともカッコよくはないから。

EWI4000sの、この穴はいったい?

最近気づいたんですが、EWI4000sのこの穴…まずくないですか?

マウスピースを取り外すときのネジ穴なんですが、上側に穴が開いてます。

このすぐ真上で息を吹き込んでるわけなので、唇からこぼれたつばが入っていくのは間違いないですよね…

取り外してみてみると…やはり上側が少しサビてました。

あ~

とりあえずラストリムーバで、目立つ錆を落として、ネジ穴周辺を綿棒とかで綺麗にしてあげてメンテナンス。

それ以降、練習する時は、ここをセロテープでカバーするようにしてます。

万が一ここのネジが錆びて動かなくなった場合、マウスピースの交換もできなくなりますし、要注意…ですね。

早めに気づいてよかった。
他の方はどうしてるんでしょうね?

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リスクの全体総量は減ってますよ

今の時代は、さまざまなリスクに対して、やや神経質になってるのかな…と感じることがある。
もちろん余計なリスクに晒されたいと思ってる人は一人もいないわけだから、ある意味当然ではあるけれど。

ただ、ひとつ認識しておかないといけないのは、安全性の確保は、よりリスクの大きなものから順番に行っており、実際世の中は、おおむねその通りに動いてきてるというコト。

一人の人間が一生の間に晒されている、全体総量のリスクの絶対値は確実に減少しているというコト。

段階的に実施されたシートベルトの規制

たとえば、車の安全性確保に関して言えば、昔はシートベルトすら付いてない車もあったし、長きにわたって着用義務すらなかった。

それが、運転席を義務化し、前席を義務化し、今では全席が着用義務あり。

さらには6歳以下の子供を乗せる場合は、チャイルドシート等が義務化されてる。

いきなり全席&チャイルドシート義務化を実行したわけではない。
最も死傷率の高い運転席から規制を進めるのが、最も効率良くリスクを減少させられるために、そこから手がつけられた。

安全性の確保が名目であっても、いきなり全てに規制をかけることは望ましくはない。

急激な変化に対応できない人を、いきなり規制によって犯罪者扱いするのは、社会的にもよくない。

先を見据えた上で段階的にリスクに対応する必要があるというコト。

実際、交通事故における死者数はどんどん減少してきてる。
もちろんゼロにはならないですが。

食品への規制

これは食品に関しても一緒。

かつては日本でも、シャレにならない量の農薬散布が行われてたし、工業廃水は川や海に直に流されてたし、煙突にもフィルターなんか付いてなかった。
安全性の怪しい材料も、経済性を理由に食料生産の現場に持ち込まれて、そうした食品がフツーに流通してた。

たぶん、自分の年代は子供の頃、そーした食品をたっぷり食べさせられて育ってきたんじゃないかと推察してる。

その後、健康や食品安全への研究が進み、農薬の種類も使用量も減少し、排水、排煙には排出基準が設けられ、明確に健康への危険性が疑われた材料はどんどん生産現場から除かれてきてる。

研究によって確定した大きなリスクは、徐々に排除されてきて今日がある。

少なくとも、昔に比べれば、今の食品は安全だといえる。
もちろん比較論として。

小さなリスクも扱える時代

ちょいと前にも書いた農薬や、食品添加物の問題。
実際、量としては微量だ。

このテーマが、ことさら取り沙汰されるようになったのは、食品における主だった大きなリスクが一段落ついたからなのだと思う。

今まで、仮に全体で30%ものリスクがあった時代なら、検討する必要もなかった小さなリスク(例えば1%とか0.3%とか)も、全体のリスクが10%以下になってくれば、詳細に検討する必要が出てきたものだと考えてる。

実際、研究を進めるにあたっても、そうした小さなリスクを研究対象にするには、それなりの積み重ねが必要だ。
研究を進めるだけの基礎理論やデータの採取技術の発展がなければ、研究自体が進まないわけだし。

今の時代になって、ようやく手を付けられる…扱うことができる研究テーマになってきたと言える。

ゼロリスクはあり得ない

車の安全性確保においては、シートベルトやチャイルドシートに留まらず、エアバック、ボディ剛性の向上、衝突時のクラッシャブルゾーンの確保、最近では自動ブレーキなどなど。

かつては、必要性すら論じらなかった装備によって、以前であれば助けられなかった命が救われていたりする。

食品に関しても同様で、今現在、様々な食品への安全が疑問視されるものも存在するが、これに対して十分に科学的な裏付けが整っていくのは、これからのコトだと考えられる。

この分野、車の安全性向上ほど、目にみえる効果があるわけでもなく、研究自体が長期にならざるおえないわけだし。

ゆえに、かつての安全への研究や規制の進め方がそうだったように、これからも同じような行程で、コトは進んでいくはず。

とはいえ焦ることも、不安になることも何もなくて、ゼロリスク自体があり得ない話なのだから。

道を歩いてるだけで、転んで頭を打って死んでしまうリスクはゼロではない。
だからと言って道を歩かないなんて人はいないわけだから。

それでも、車にしても食品にしても、昔に比べれば遥かに安全だし、今後、どんどん安全が確保されていくのは間違いない。

せっかくリスク自体が減少してる時代なのに、その小さなリスクを過剰に心配するのは、精神安定上勿体なさすぎ。

EWIシリーズの練習にはアニソンが良い?

別にEWIシリーズに限った話ではないですが、まぁ、今自分が練習してる楽器はEWI4000sなので、そーゆータイトルです。

初心者の練習向きかも

結論先に言うと、ゲームやアニメの主題歌、挿入曲では、それほど難易度が高くない場合が多く、楽器…それも初心者の練習には向いてるんじゃないかというコト。

実際、声優さんに歌ってもらう前提だと、それなりにレッスンしてるとはいえ、やはり本業じゃないですから。

これいい曲だな~と思って耳コピして譜面に起こしてみたら、音域も1オクターブちょいしか使ってなかったり、難しいフレーズがほとんどなかったりとか。

もちろん例外もあります。
ちょこまかと転調を繰り返して、楽器によっては運指がトンデモない曲もありましたし。

ただ、自分の好きな曲で練習できる…それも比較的難易度が低いっていうなら、それを使わない手はないです。
楽器の練習で何より大事なはモチベーションですし。

定番曲はちょっと難しいかも

あと、新しくできた電子楽器なので、定番の練習曲みたいなのが存在しないってコトはあるかも。

それに、実際にEWIシリーズをライブで使ってるのは、かなり演奏レベルの高いアーティストが多いので、そっちの曲で練習するのは、初心者にはつらかろうと。

いきなりT-SQUAREの宝島…ってのは、あんましオススメしないです。

まぁ、自分もまだまだ初心者から抜け出せてませんけど。

自己満足で十分ですよ

大人の趣味の楽器だと、学校の部活みたく人前で吹くこともなかなかないでしょうから、最初は自己満足の領域で、思いっきり楽しむべきなんでしょう。

基礎練繰り返して、好きな曲を吹いて…少しづつでも上達できれば、それで十分楽しめます。

少しでも上達すれば、そこからまた先は、その時に考えればいいんですから。

まずは楽しむコトを考えましょ。

オーガニックとハイレゾオーディオ

この二つ…似てます。

いずれも価値はあるものの、その価値を実感できる人間の数が限られるという点が非常に似ている。

特にオーガニックは名が知れるようになってから日が浅く、自分の中で認識に困る部分もあるので、そのあたりをちょっと整理して書いておきたい。

高音質なハイレゾオーディオ

世の中の大多数の人間にとって、音楽の音質レベルはCD程度であれば十分です。

レンタルCDで借りてくればコトは済みますし、多くの人はそれをmp3やaacに圧縮してスマホや携帯プレイヤー、カーオーディオなんかで再生してます。
それだけでも十分に良い音で楽しめますから。

ここ数年でハイレゾというCDの数倍の情報量を持つフォーマットが登場しました。
CD以上の音質で音楽を楽しめるというコトで、ネット配信で急速に売り上げを伸ばしてますし、オーディオマニアの間では定番になりつつある。

もちろん、その分お値段は高めで、ネット配信で、通常音質の曲が250円程度に対して、ハイレゾ音源は倍の500円程度の値付けがされてます。

それでも、良い曲を良い音で楽しみたい…という人にとってはお金を払う価値がある。

聞き分けられる人は限られる

ここで注意しないといけないのは、個人の聞き分ける能力の差。
これは個人差が非常に大きい。

一度mp3フォーマットで実験したコトがあるんですが、どの程度の音質まで聞き分けられるかどうかをビットレート(音楽の情報量を示す単位)を変えながら聞き比べてみました。

今現在、通常音質で配信されてる曲のビットレートは320kbps程度。
ところが、自分が聞き分けられたのは、せいぜい200kbps程度までで、それ以上はビットレートを高くしても、これといって変化を聞き分けられず。

逆にビットレートを下げる場合も100kbps程度までなら、そんなに気になるほどの変化は分かりませんでした。

これは、高音質なハイレゾオーディオには意味がない…というコトを意味するわけではなくて、音の違いを聞き分ける能力は個人によって大きく差があるコトを意味します。

数値上、高音質であることは間違いないですが、それを実感できる人は限られる…このことを認識しておくことは大事です。

オガーニックはどうか

無農薬であったり、添加物を含まない食品というのは、体に余計なものを取り込みたくない…という人にとっては、この上なく価値がある。

子供を育ててる家庭であれば、その傾向は強くなるだろうし、オーガニックとまでは行かなくても、甘いジュースやお菓子を子供に食べさせない…という家庭はけっこう多い。

この需要に対して、農家さんや加工食品屋さんが頑張って、様々な食品を提供してくれているのは良いコトだし、そうした食品は、農家さんと消費者の関係性を改善したり、食品に対してリピーターを生んだりと、非常にメリットがある。

生産コストの関係で、やっぱりお値段は高めなんだが、これは仕方がないだろう。

その一方で、オーガニック食品を食べた場合の、直接的な違いというのは実感するのが難しいコトではある。

無農薬で作ったからといって味や鮮度に違いはない。
無添加の食品を食べたからといって、体が健康になるわけでもない。

中には農薬や添加物を含んだ食品ですぐに健康に影響する人もいるだろうし、味の違いを実感できる人もいるだろうが、その人数は多くはない。

基本的には、農薬や添加物を含む食品を食べるコトによって発生する健康上のリスクを避けるのが主目的なわけなので。

つまりは、オーガニックに価値があることは間違いが、それを体感できる人の数は限られている。
その意味で、オーガニックとハイレゾオーディオには共通点が多いと感じてる。

共通しない点

その一方で、共通しない点ももちろんある。

ハイレゾオーディオを楽しんでる方々は、かなり控えめだ。
自分は音が良いコトを感じてそれに満足している人が多いものの、それをことさら他の人に勧めてるのを見かけるコトはあまり無い。

これはおそらく歴史の差だ。

オーディオという趣味の歴史は非常に長く、その間様々な方々が高音質のオーディオセットに触れてきたはず。
ところが、今現在、オーディオセットの主流は、繊細な音の違いを鳴らしきる大きなシステムオーディオではなくて、ヘッドホンで聞くことが前提の携帯プレイヤーやスマホだ。

もちろん利便性とか、騒音とか、他にも要因はあるだろうけど、一番の要因は、音質の差異を聞き分けられる絶対数が少ないということだと考えられる。

高価なオーディオセットを入手しても、その違いをはっきり認識できなければ、無駄な買い物になる。

それがオーディオの長い歴史の中で共通認識になってる。
それが分かってるから、他の人に強く勧めたりはしないのだろう。

歴史の浅いオーガニック

オーガニックに関してはいえば、まだこの共通認識が整っていないと感じることが多い。

歴史が浅い故に。

裏付けになる研究もまだまだ量的に不足しているし、中にはトンデモなモノも入り混じっているのが現状だ。
既存の食品に対して不安感を煽って自分の商売につなげているだけの人も一定数いる。

こうしたオーガニックの名を騙るような存在が自然淘汰されていく歴史を積み重ねていくことが今後重要になっていくと思う。

もちろん、消費者として商品を食べてるだけでは、そうした淘汰は促されない。
消費者でいるだけでは不十分だ。

実際に生産してる人と会って話をしたり、そうした商品の生産現場に伺ったり、商品を取り扱ってみたり、オーガニックに対しての経験値をどんどん積んでいくコトが大事だと思う。

その中で、何が本物で、何が虚偽かを見抜ける能力が身につくし、本物の中でも、その重要度に差があるということを認識できるようになるはず。

今は玉石混交だ。

ここから歴史を積み重ねていかないと。

この曲の譜面が欲しかった

Amazonに注文してた本が届きました。

昨年の秋から冬に放映されて、毎週、楽しみに見てた「響け!ユーフォニアム2」の…なんというか、ムックというか、楽器本です。

内容は、楽器の紹介や、声優さんが楽器の練習する様子だとか、楽曲の解説…それも楽譜を指し示した具体的なやつ。

iPhone向けアプリ「吹こうよアンサンブル」の解説や練習方法なんかも解説してて、いちおうアニメのムックなんだろうが、こんなに楽器の話ばっかりでいいんだろうかと思うほど。
(発行はヤマハミュージックメディアなのでいいみたい)

アニメが好きというよりかは、楽器が好きで、音楽が好きでっていう人向けなのかも。

この曲が凄く良かったんです

作品タイトルであり、後半のストーリーを支えた、とても綺麗で大事な曲。
この曲を、さらっと吹けるぐらいには練習しなきゃ。

ユーフォニアム用の譜面だけど、今自分が練習してるAKAIのEWI4000sは、転調機能があるので、どの楽器の譜面でも、そのまま演奏できる。
吹奏楽器経験したコトある人なら、人を選ばす楽しめるであろう面白い楽器。

まぁ、ゆったりとした曲だし、耳コピできないこともないだろうけど、なんか3ヵ月の間楽しませてもらったコトに対価は払っておきたい気分だったので。
DVDとかBly-rayとかは買う人じゃないので。

楽器は下手なのが楽しい

世間一般で「楽器をやる」なんて、フツーの人はしない…ってイメージがあるのかもしれないけど、みんなもっと気軽に楽器に触れてほしいなと思う。

趣味なんだから、下手だって楽しめればそれでいいし、もうちょっと上手くなりたいな…って思えば時間を使って練習するだろうし。

その意味では、下手であるから楽しめるという、面白い趣味だ。

プロじゃないし、競技じゃないし、正しく吹くという正解ごともないし、自由に吹いて楽しければそれでいい。

そーゆー心を自由に遊ばせるのには、楽器や音楽ってすごくいいものだと思う。
さ、練習するぞ。

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友達と観光客を区別しなくていいんじゃないか

観光地の住んでる人間として、ふと思った事がひとつ。

行政とか、観光協会とかは、盛んに観光客の増加を叫んでるわけだけど、果たしてそれはホントに必要なコトだろうかと。

友達が遊びに来た

余所から友達なり、親戚なりが遊びに来たとする。

近くの観光施設に連れていったりして、お昼は味の良い知り合いのお店で昼食。
夜は近くのスーパーで食材を買って、地元ならではの味を堪能してもらう。
料理の上手な人なら、知り合いに何人かいるし。

用事があれば日帰りかもしれないけど、ゆっくりしていきたいと一泊するかも。
近くに温泉あるし、広いお風呂はどうだ…といってお湯につかってゆったり。

とまぁ、仮にこんなような行動をしたとすれば、これって通常の観光客以上に、観光地を楽しんでくれてません?
それなりに施設やお店でお金も使ってますし。

なにより、友達ですから、必ずまた来ます。
特に何もしなくてもリピーターですよ。

これって、一般の観光客以上じゃないですかね。

男鹿で今やらなきゃならないのは、観光客を増やすっていうより、友達を増やすことなんじゃないかという気がしてます。

観光は、もう、ほとんどが個人客だ

とまぁ、こんな事を書いたのも、この間ちょっとした集まりに行ったときに見せてもらった観光データで、観光客の5割がマイカー移動で、9割がパックツアーを使っていないっていうのを教えてもらってから。

つまり、みんなマイカーや列車、バスなんか使って、自由気ままに観光を楽しんでる…ってコトで、今さら、旅行代理店のパックツアーの団体客が増えたとこで、全体としてはもうたいした規模では無いってコト。

だったら、お店の主人でも、宿の女将さんでも、その地域の住民でも、遊びに来てくれた人と友達になった方がてっとり早いんじゃないのか…ってコト。

かしこまって「おもてなし」なんてコトを言うんじゃなくて、もっと気楽に遊びに来たよ~って言ってくれる人の方がありがたいし、逆に自分も気楽に遊びに行けばいい。
そうすれば相互交流にもなるし、お互いの地域にとってプラスだ。

規模を追う時代じゃない

確かに、規模を言ったら、あまり大きくはないだろうけど、その代わり頻度があがれば問題ないわけで。

パックツアーの観光バスが大挙してホテルに泊まってくれる…っていのも、もう既に昭和の残滓でしかない。
一年に一度二度の超繁忙期だけならそれも成り立つかもしれないけど、年間を通じて、それが成立するかどうかは疑わしい。

1回来たらもう二度と来ない気まぐれな観光客を呼ぶのに力を入れるよりなら、何度でも遊びに来てくれる友達をたくさん作った方が、人生楽しいに決まってる。

数学や科学は、なるべく学生のうちに勉強したほうがいい

学生の頃、こんな勉強して、将来何の役に立つの?と思ったことのない人はほぼいないはず。
特に数学や科学。
こんな面倒で、ややこしいこと、一般社会で何の役にたつんだろうか…と。

四則計算程度ができて、お金が数えられるならそれで間に合うじゃん…と。

結果から言えば、数学も科学もおおいに役にたつ。

それは自分がIT系の仕事をしてるから…という訳ではなくて。
普段の生活の中で、十分すぎるぐらい役に立っている。

いや、ホントに。

数学、科学を学ぶメリット

数学や科学に学ぶメリットのひとつは、数字の扱いに長けるコト。
正確には、数字の持つ意味を判断する力が身につくこと。

一般社会を生きていくにあたって、状況を判断して、自分で決定を下さないといけない場面というのは多々ある。

多くの場合は、その状況は数字をもって表される。
確率だったり、金額だったり、年数だったり、その形は様々。

その時、数学や科学に疎い人には、その数字の意味の把握は非常に厄介な作業になる。

例えば、その数字が0と1…つまりは「答え」として示されれば判断は容易だ。
ところが大抵の場合、自分の人生に関わる数字は小数で示される。
0.3とか0.7とか、いろいろ。

小数で示される数字は「答え」ではないので、自分で解析して、分析して、自ら判断をしないといけない。

数学や科学の世界では、そうした数字の取り扱い方には一定のメソッドがあることを学ぶし、結果として出てきても意味を成さない数字が存在することも学ぶ。

数字を額面通りに見る…なんてことは絶対にしない。

そうして数字を判断材料として揃える作業を日常的に行って、数字そのものではなくて、そこから何が導き出されるかを考える訓練を幾度も行う。

こうした学習をすることで、数字の意味を自ら判断する力が身につく。
これが最大のメリットと言える。

食べるべきか否か

そうした訓練を行ってこなかった人、0と1以外の数字に日常的に触れてこなかった人の場合は、小数で数字を出されても判断できない。

例えば、目の前に一つの食料があったとする。

これを食べるべきか否か…これをどう判断するか。

製造日や賞味期限が記載されていれば、その経過から判断できるかもしれない。
では賞味期限から2日過ぎてたらどうか?
4日過ぎてたら?
匂いや色、あと味をみて、大きく変化してなければ大丈夫なんじゃないか。

生産国はどうだろう。
遠くの国で作った果物だったら、もしかしたら保存用の薬品が使われるかもしれない。
まぁ、洗って皮をむいて食べれば、心配することは無い。
ほんの微量残るかもしれないが、そのぐらいなら、まず無害だろう。

南東北産だったらどうか。
今だと、放射性物質に過敏に反応する人もいるだろう。
事故から時間もたち、今の検査体制なら、基準を上回る食品が出回る可能性はまずない。
そもそも、自然界にはもともと放射線が飛び回ってるのが通常で、問題になるのはその量だ。

今現在の科学における、放射線に対する見地から、まず問題はないと考えるのが妥当だろう。

というわけで食べよう!
美味そうだ!

数量の意味を判断する

とまぁ、そんな判断を下したとする。

これらは、それぞれ製造日からの経過時間、残留農薬量、放射線量というそれぞれの数量を自分なりに見積もって、この程度なら問題ないと、自分で判断したから、食べることができる。

ところが、それぞれの数量を見積もることができず、また、その数量が意味することを理解できなければ、食べてよいかどうか判断することが出来ない。

そうした場合、どうするかと言えば、たいていはネットを検索するだろう。

でもって、この食料を食べてよいかどうかの答え探し始めるはず。
数量の見積もり方や、数量の基準なんかは、すっ飛ばして。
0か1かの答えを探し求める。

「賞味期限を過ぎたら危険、自己責任」「残留農薬は体に悪い」「放射線は危険」という情報を見かけたら、もう目の前の食料を食べるなんて怖くてできない。

一番大事な、数量はどうなのか…というコトには目もくれず。

本当は、ほぼ危険性も存在しないものであったとしても、それを裏付ける数量の意味を理解できない以上は、仕方がない。
ほんの僅かでも危険があれば食べない…という判断をせざるおえない。

それも仕方なし。

0か1でしか数量を判断できない人の場合は、このような判断しかできないが、それはそれでその人の判断なんだから、しょうがない。

次回からは、買ってくる前に産地を確認して、賞味期限前に食べるしかない。

誰かの判断を受け入れる怖さ

実際のところ、怖いのはこの先だ。
食料一つの判断なんて、別にたいした問題ではない。

世の中、食料以上に難しい判断を迫られる場面は数限りない。
そのたびに、状況を示す数字が様々に提示される。

おそらく、数字を判断できない人は、その度に0か1の答えを求めていく。

そして怖いのは、現代社会では、本来誰からも提示されないはずのない、0か1の答えを声高に主張するモノが実在していること。

ネットで検索すると、本当は白黒つけられない問題に際して、答えである0か1を大声でまくし立ててる人がいる。
たいした根拠でもないけど、そもそも0か1かしか欲しくない人にとっては、それがどんなにトンデモない根拠であっても関係ない。

それに飛びついてしまいう。
自分で判断するんではなくて。
誰かの判断の下につこうとする。
その判断の下で安心しようとする。

とはいえ、そもそも自分で判断をしているわけではないので、心の底から安心なんて実際はできるわけはなくて。

今後、際限ない不安の影に怯えながら、それでも心の安寧を他人任せにする以上の術は持ってない以上、もうどうしようもなくなる。

ずっと不安に付きまとわれる。

安心は自分で判断するもの

とまぁ、長々と書きましたが、安心というのは、自ら判断するものであって、他人に与えてもらうものじゃない…ってことです。

安心を手に入れるためにも、現代社会では数学や科学といった、数字を扱うことに慣れてリテラシーをあげておかないといけない…ってコトです。

幸い、これらのリテラシーは、義務教育レベル、高等学校レベルで十分に手に入れられる程度のことなので、子供さんがいる家では、よく勉強するように言っておいたほうがいいかも。

数字ってのは、自分で判断して意味づけるものだ…って、それだけ分かってるだけで人生の安心度はぜんぜん違いますからね。