今朝の新聞に、ナマハゲを含む来訪神行事をユネスコに一括登録を目指す…という記事が掲載されてました。

変わらないモノは滅びるしかないというのは自分の中でも持論なので、こーゆー動き自体を批判するつもりはないんですが、どうにも自分の中に、この動きに追い付いていけない部分があるのは否めない。

この気持ちは何だろうかと、ふと考えてみたコトを書き残しておきます。

早い変化に付いていけてない


理由は単純
民俗行事の動きとしては早すぎるんです。

おおよそ365倍くらい早い。

ナマハゲを含め、民俗行事というのはたいてい年一回です。

一年の中で、ナマハゲと直接会うことがあるのは一日だけ。

あんなものに、年中顔を合わせるなんて想像もしたくない。

だから、一年の中で、一日だけ、一回だけ。

時代の流れの中で、ナマハゲというものの本質が変わっていくにしても、本当なら年に一度の機会しかないわけですから、その動きは少しづつですし、ゆっくりのはず。
世代の移り変わりにつれて、じわじわと新しい意味を得ていくというのが本来。

ところが、今のナマハゲは、観光から教育、交通安全から、小学生の挨拶励行、テレビやイベントの賑やかしと、年中出番があります。
ナマハゲが公の場に現れるたびに、何かしらの影響を与えていくし、与えられていく。

人々の中で、その意味するところが変化する機会が格段に増えた。
僅かな変化の積み重ね。

今まで、年に一度しかなかった変化の機会が、365日に拡大されているわけで、そりゃあイロイロ動きます。
自分の中に幼小体験との距離が出来ていくのも仕方がないです。

生まれた時代とのギャップ


今更、この動きを止めようとしても、止めようもないコトですし、もうなるようになるしかない。
たぶん、全国にある伝統行事の大半が同様の状況にあるのかも。

ナマハゲや同様の行事が生まれたのは、その時代の人々でなければ理解できない経緯があったはず。

あれが、初めから来訪神として良いモノとして迎えられたとは、とても思えない。
それであれば、もっと福をもたらすようなイメージが具現化されてよい。

耐えざるを得ない何かを具現化して、そのかわりに得られる僅かな何かを糧にして生きていく。
そうした時代の暗い部分から生まれたモノとしての残滓。
照明も何もない、真っ暗な時代の闇の中から現れた、あの出で立ちの存在が、明るい希望のわけは無い。

今は、何もかもが明るい光の元に晒され、人の生き死に関わるような部分は極力隠され、ポジティブであることを強いられる。
人の心の暗い分から出でたモノにとっては、生きづらい時代。

なるようにはなるだろう


まぁ、それでも、しぶとく生き残ってきたナマハゲですし、この先どのような変化があろうとも続いていくんでしょう。

生まれた時代のような「暗さ」をまとう必要もなくなったということは、今がそれだけいい時代だという証明でもありますし、新しい存在意義の中で生き続けるしかない。

それはそれ、なるようになる…と。
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