ぼーっとネットを眺めてたら、変な投稿を見かけた。

70年前の太平洋戦争のお話で盛り上がってるよう。

盛り上がっているというか、disってるというか、炎上してるというか、まぁ賛否別れてヒートアップしてるよう。

過去の出来事について、情報を整理して保管するコトには、歴史研究という意味では意義があコト。

ただ、それを当事者でもない、今の人が、罵詈雑言を吐きながらヒートアップしてまで賛否を論じるようなコトでもないよな~っていうのは正直なトコ。

もう70年の前のコトなんだし、当事者の方は、あまり多くを語らずに亡くなられているのが現状。
ここで、2次情報だけで、当事者外の人が議論をすることにはこれといって意味を見いだせないし、そこから出された結論にさしたる価値を感じない。

70年前のコト。
それより、むこう7日間に自分のやるコトを悩む方が大事。

議論の目的は論破ではない


世の中バトルタイプの人が増えたのか、それとも単に声が大きから目立つだけなのか、相手と議論をする時に、いかに相手を説き伏せ、自論を強弁して論破するかにこだわる人が増えたように思う。

そんな行為には、何の意味も見いだせないし、そうした出された結論にさしたる価値を感じない。

自分以外の他人と意見が異なるコトは普通のコト。

相手と好きな食べ物が異なるぐらい当然のコトなのに、それを元に争いや諍いを起こすコト自体、リソースの無駄遣いに思えてならない。
というか傍で見ていて見苦しい。

ラーメンが好きか、カレーが好きかで言い争ってるのと同じレベルだ。
そこで自らの正義を振りかざすのは滑稽だ。

相手の意見を聞き、自分の主張を言い、その両方をバランスしながら落とし所を見つける。
それができなければ他人とともに生きていくなんてできない。
こーするべき、あーするべきといった主張に、正義も、正論も、正解も存在しない。

どうしても意見が合わないのであれば、距離をおき、別の道を歩めばいいのであって、そこで自らの主張に寄りかかったまま争う必要は無い。

相手を追い詰め論破することができたとしても、それはあなたが相手を論破するスキルに恵まれていただけに過ぎず、それによって自論の正当性が裏付けられたわけではない。

あなたの主張は、より論破するスキルに長けた人に簡単に論破される。

そういうコトを議論とは言わない。
議論に勝ち負けは存在しない。

パフォーマンスを上げるための議論


議論の目的は、お互いの共同作業において、共通認識を練り上げパフォーマンスを向上することにある。

相手に自論に従わせりるのが目的ではない。

その意味では、相手の意見と、自分の意見は常に同価値だ。

どちらを採用するか、もしくはどのあたりに落とし所を持ってきて、どのへんを妥協するかは、いかに目的をよく達成するかに基づかないといけない。

常に確定していない未来が基準だ。
過去の実績は関係ない。

確定しない未来に対して、お互いに責を負う覚悟が必要だ。

自論がどれだけ取り入れられたに関わらず、共通認識を持って行動し。
その結果の如何に関わらず、その後の事象に対して責任を持つ。

それができない相手とは議論はできない。
それができない相手とは未来は作れない。

議論すべきかどうかを見極める


情報にあふれた現代。
刺激にあふれた社会。

ともすれば無駄な議論や話し合いに巻き込まれるコトは往々にしてある。

その時に、自分のリソースを割いて議論に参加するべきか、さらっと流してしまうべきか。
その見極めができなければ、とんでもない人生の無駄遣いに巻き込まれてしまうこともありえる。

自分が、真剣になって、悩み、議論し、落とし所をさぐって、進みたい未来を見極める事柄というのは、そんなに多くはないはず。

それを瞬時に見極めるスキルを磨くのも、時間管理には重要なコトだ。
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