今や「知識」を得るコストは格段に下がったのは、皆さん知っての通り。

簡単なコトであれば、ネットで検索(ググる)すれば、たいていのコトに関しての見識は得られる。

多少、難しいコトであっても、オンラインでセミナーを受けたり、大学の講義を受講することだって可能。

一昔前だと、田舎では入手困難だった専門書の類だって、ネット書店で簡単に入手できるようになった、何とも有り難い時代。

かのニュートン曰く「巨人の肩の上にのる矮人」とはよく言ったもので、さしずめ今の日本人は「スカイタワーの上にのる矮人」というあたり。

僕らの暮らしは、先人の積み重ねた成果の上で成り立ってるコトは、今更言うべきコトでも無い。

上を見なければ意味が無い


とはいえ、何のために巨人の肩の上にいるかと言えば、はるかな地平を眺めて優越感に浸るためでも、下界の騒乱を高見から見物するためでもない。

さらなる高みを目指すため…ただそれだけのために、僕らは巨人の肩の上にいる。
下や、横ばかり見てても意味が無いし、眺めるだけで安寧としていても、そこから一歩も動けない。

今僕らが見てる光景を、さらに高く、もっと遠くを見通すためには、僕ら自信の努力が必要。
小さな積み重ねと、大きな革新の両方の成果によって、もっともっと高い位置を目指さないといけない。

無駄な全能感


知識を得るための最善のツールであるネットも、弱点は多々ある。

知識を実践するための助けにはなりにくい。
実際に手を動かす場面では、予備知識を得る以上の助けには、ほとんどならない。

実際の学校や、セミナー、ワークショップのような場所とはそこが異なり、「実践」を促す力が弱い。

さらに「知識」は、構築された頭の中の世界では、完璧に機能してしまう。
実際には試してみると頭の中で考えていたコトとは全く異なる状況に陥るコトは珍しくないのだが、それは実践して初めて分かるコト。

実践さえしなければ、自分の世界では、得た知識を100%完璧な状態にしておける。
その知識に関しての「全能感」を感じられるという、やっかいな状況を生み出してしまう。

この無駄な「全能感」は、大いに社会をむしばんでると言える。
実際には、多数の穴や問題を含んでるはずの「知識」を完璧であると思い込んでしまうコトの弊害は非常に大きい。

実践すること、改善すること


得た「知識」が、「知識」の通り動くかどうかは、「実践」するより確認する手段は存在しない。
頭の中でシミュレーションしてるだけでは予備知識を組み立ててるだけに過ぎない。

「実践」すると、現実世界では何が問題になるのか、発生する問題を解決するためには何が必要になるのか、その知識が活きる場面がどこなのか、そういった活きたフィードバックが多数手に入るし、そこから多数の「改善」を行える。

ただの「知識」と、自分の手を動かした「実践」の違いはソコ。

そもそも、ただの「知識」だって、先人がゼロから繰り返し「実践」してきた積み重ねであって、そのおかげで、今を活きる僕らは、簡単に「知識」を得られるのだから。

よって、この「改善」はなるべく「知識」に還元してあげるのが望ましい。

昔はこの役割は、学者が論文を発表するような方法しか存在しなかったが、今は入手に使ったネットを使って簡単に還元させてあげることができる。

HPを作ってもいいし、ブログに書き残してもいい、SNSに投稿しても、今は検索対象にできる。

もちろんネットを使わなくても、口頭で同じ状況のヒトに伝えるコトでもいいし、手順書に書きまとめて、それが必要な場所に配布するのもアリだ。

手段は何でも構わない。

PDCAは一人で回さなくてもいい


PDCAは、何かコトを進める場合に、誰しもが使う手法で、かなり有効な手法だ。
個人、企業の単位で回すのが通常だろうけども、ネットを介して知識をやりとりすることが可能なこの時代、PDCAのサイクルを一人で回す必要はないんじゃないかと思う。

合ったことも無いヒトの「知識」をネットから入手し、そこから得られたフィードバックや改善をネットに還元することで、もの凄く大勢の人の手でPDCAのサイクルを回すことが出来る。
一人で回す必要はない。

その意味では、「学者」だの「研究者」だの堅苦しい肩書きはなくても、人類の英知を高める作業に加われるという、なかなかに面白い状況に今僕らはいる。

つまんない「全能感」に浸ってまどろんでないで、刺激的な高見を目指して、地味な作業をするのが出来る、かつてない面白い時代に、僕らはいる。
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