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消費者から、文化を育てる人になる

有名な作曲家が、実は他の人に曲を書いてもらっていました。
これを受けてコンサートを中止したり、CDを回収したり。
レコード会社や、コンサートの主催者はコトをなかった事にしたくて躍起になってる感じ。
メディアが、ここぞとばかりに批判の声をあげる様子を見てると、非常に違和感を覚えます。

消費者という安全地帯

今回の事件に対して「騙された」とか、「がっかりした」とか言う方々というのは、典型的な消費者なんだと思います。

CDを買うなり、コンサートに行くなりというのは、主体的行為であって、そこにはチケット代だって、交通費だって必要です。
それらの対価を払ってでも聴きたいと判断したのが誰だったか。
判断を下した主体者(自分なわけですが)を差し置いて、件の作曲家を非難することは、過去の自分の判断を切り捨てているという行為なんだと思います。
消費者という、ある意味の安全地帯に身を置きうつつ、何かあった場合のリスクは切り捨てることで解決する。

そこかわり、過去の自分の判断を検証したり、批判する機会は永遠に失われます。
自分の中に育ち始めていた文化の芽すらも無かった事になってしまう。

こうした判断の基準を、自分の外に置いておけるヒトというのは、売り手や、メディアにとっては都合がいいんでしょうが、個人の中の文化性の形成としては、常に判断の根拠を外に求める権威主義にすがるしか無い形でしか成立しないですね。

リスクを無視することの危険性

何事にもリスクは存在します。
それこそCD一枚買うのだって、Facebookで「いいね」押すのにだってリスクがあります。
自分が良いと思ったモノやヒトが実は、反社会的な存在であることが判明することは当然あります。

世の中のすべてのモノが公明正大で、正しく行われているというのは幻想です。
自分の判断が間違っていた時に、過去の自分の判断を受け入れるリスクを背負わないことは、金銭的な損失等は何もないですが、その人の中では、大きな別の損失が発生してると思います。

文化を育てるには、リスクを負うしかない

そこに自分なりの確かな判断基準が存在しなければ、その行為と当時の判断を無かったことにして切り捨てるしかない。
逆に自分の中に確かな判断基準があれば、それと折り合いを付けながら、過去の自分と向き合うこともできる。

文化を生み、育てていくためには、後者のリスクを負う姿勢が必要なんだと思います。
覚悟を持って、自分と向き合うことで、自分の中の文化を育てていくことができる。
自分の中の文化や基準があいまいのままでは、とても世の中に文化を広めていくなんてできない。

何となく、一人で勝手に納得してしまいました。
消費者という安全地帯から這い出して、文化を育てる人間にならないと。


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Published in 答えなど無い

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