先日、今年行われる余所のプロジェクトに関して、たまたま飲み会の場で、資料を見せてもらう機会があった。

自分も、それなりに関連したプロジェクトの経験があったので、そういう観点で資料を見せてもらったのだが、資料を眺めるにあたって、ちょっとゾッとした思いをしたので、書いておく。

直ぐ分かった。足りなかった。


見せてもらった資料は、一言で言えば「足りない」
それはざっと目を通しただけ直ぐに分かった。

そもそも、その資料を作るにあたって特別なスキルも経験も必要なものではない。
無理難題な資料では決して無い。

そのプロジェクトが目指す結果を考えて、それに関わるヒトの気持ちを考えて、一つ一つ丁寧にむすんでいけば、決して難しいモノではないし、そうして作られた資料であれば、それは見る人が見れば分かる。

ところが、その資料は、関係各所からのリクエストを、単純に線で結んで全体像を取り繕っただけだった。

そこに、何を目指すかという理念も、関わるヒトがどんな思いをぶつけてくるかも何も想定されていない。

ただ、形を為しただけの資料。

そうした経緯が、自分には一目見て分かった。
これは、かなり怖いことだ。

情熱を注いだ結果は分かるの


これは、別に自分が特別優れたスキルを持っているとか、途方も無い経験を積んできたことを誇る…というコトではない。

いろいろと自分には不足している部分は認識している。

ただ、そこに注ぎ込む情熱だけは誰にも負けないという自負はあった。
妥協だけはせずに、目指す結果と、関わる人達の思いに応えようと、一生懸命にプロジェクトに取り組んだことだけは確か。

そうして情熱を注いだ経験のある人間には、情熱を注ぐことなしに作られたプロジェクトは、一目で分かってしまう。

というか分かった。

分かってしまうことを分かってしまった。

これは、自分が逆の立場でも同じ事だ。

自分が、中途半端で妥協して作った資料は、情熱を注いで関わってくれているヒトには、すぐに分かってしまう。
熱量が不足した、生煮えの状態で皿に載っているいるのが、丸見えだ。

それに気付いた瞬間の背筋の凍る思いは、飲み会の席で経験したことのない感覚だった。

注ぎ込む熱量で負けちゃいけない


人それぞれ、立場とか、権限とか、資産とか、いろいろ違うので、何かを取り組むにあたって、どれだけリソースをつぎ込めるかに関して優劣を論ずる必要はない。

大きなプロジェクトを動かせるヒトもいれば、小さな取り組みを積み重ねてくしかないヒトもいる。
もちろん、自分は後者。

そうしたプロジェクトや取り組みを進めるにあたって、大事なコトは、たとえ注ぎ込めるリソースに限りがあると言えども、注ぎ込む熱量で負けちゃいけない。

これでいいか…と妥協してしまった時、不足してしまったコトによって、相手を満足させられなかった時の自責は凄まじい。

自分ではこれで十分…と考えてしまったことへの後悔。

もう少しだけでも考えて動いていれば、相手の人をがっかりさせることは無かったのに…という思いは、いつまでも残る。

力が及ばなかったのであれば仕方が無いが、力を尽くすことが足りなかったとすれば、それ自体が、プロジェクトや取り組みに対する裏切り行為だ。

これを、自ら赦すことは、到底できない。

注ぎ込む熱量が足りなかったのだ。

情熱を燃やす。熱量を注ぎ込む・


どんなに小さな、どんなに些細なプロジェクトや取り組みであっても、同じように取り組むヒト、それに関わってくれてるヒトには、情熱が足りなかったり、注ぎこむ熱量が足りないというコトは一目でわかってしまう。

情熱を燃やして、惜しみなく、その熱量を注ぎ込まなければ、それは廻りにはバレバレ。
それだけは、肝に銘じておかないと。
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