今朝の地元新聞に、国文祭あきた2014関連の取材記事として、男鹿市門前で大晦日にナマハゲを務める若者(30)の記事が載っていました。
記事の内容については、この後で書いていきますが、こうしたナマハゲについての考え方が、メディアで取り上げられるのは良いことだと思います。

住民気遣い地域を守るナマハゲ


記事の中では、
"なまはげは子どもをしつけ、住民に元気かと気遣う神様。
  地域を守る存在に自分はなるんだと思った。"

という言葉が紹介されています。

また、なまはげ館の解説員のお話として、
"なまはげは災いをはらい、人々に祝福を与える歳神とされる。
  存在は全国的によく知られているが、神様としてのなまはげの本質はまだ知られていない。"

という指摘も掲載されていました。

新聞記事という性格上、取材者の主観が影響している可能性もありますが、最近の男鹿のナマハゲを語る上でよく用いられる内容でまとめられています。

「地域の絆を守るナマハゲ」
「神様として厄払い、祝福を行うナマハゲ」

おおむね、役所や、観光協会が伝えようとしている内容です。

それはナマハゲである必要はあるのだろうか?


このblogを読んでいただいている方はご存知だと思いますが、自分の考えは違います。

ナマハゲは、理不尽な暴力をふるって子供や嫁を脅し叱りつける存在。
自然にしろ、人間社会にしろ、こうした理不尽なコトがあることを、潜在意識の中に強烈に刷り込むための装置。

こうして簡潔な文章で表すと、身も蓋もありませんが、こうした本質が存在があってこそ、ナマハゲとしての役割が果たされているのだと考えています。

地域の絆を守ることや、神様としての役割は、ナマハゲでなくても果たせませす。
逆に言えば、ナマハゲでない方が、そうした役割をうまく果たせる場合が多そうです。

地域の衰退にリンクするナマハゲ


とは言え、自分は大晦日のナマハゲを一度もやったことがありません。
なので、こうした現場の方々の言葉には重みがあるのは事実。
もしかすると、この方々の言説こそが本質を表していて、自分の考えは独りよがりの妄言である可能性すらあるかもしれません。

実際、地域の衰退の中で、ナマハゲが果たすべき役割自体が失われてつつあるのは間違いのないところです。
男鹿の家庭の中から、子供や嫁が減っていっている今、本来の理不尽さ発揮する場面は激減しました。

若い家庭の中には、玄関で気勢をあげるだけの家も増えているようで、家の中まで入れるのは高齢な家庭がほとんど。
結果として、何に一度、お年寄りの無事を確かめに来る歳神という役割にシフトしているというのは、現実としてあるのでしょう。

こうした伝統行事や文化は、その時の世の中の状況の影響から無縁でいるわけにはいきませんし、それを受けて変化していくべきかは、議論の分かれるところだと思います。

変わるべきか、続けるべきか、ナマハゲの未来


ナマハゲを、どのような姿で未来に残すかは、今が分岐点だと考えます。

荒ぶる理不尽な存在としての姿を維持するのか、衰退する地域を守る歳神として存在するべきかどうか。
大晦日に行う伝統行事と、柴灯祭りなどの観光に使うナマハゲを同じ存在とするのかどうか。
考えるべきこと、答えを求めて苦しむべき案件は、手つかずのまま山積みされたままです。

今、真剣に考えないと、既にナマハゲ行事をやめた集落も多く、人口減少と少子化で、ナマハゲそのものがなくなる可能性すらあります。

こうした記事が掲載されることも含めて、男鹿に住む人間、特に若者にとってナマハゲの役割をどうするべきかを、真剣に議論するのは急務だと考えます。
惰性だけで続けるのは、もう限界です。

本日はここまで。
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット