”「なまはげ」は「鬼」ではなく「神様」だった”



とある(ってJRですが)CMにて、吉永小百合さんの台詞。
これで「そうなんだ」って思う人も居れば、「あんなのが神様なわけないじゃん」と思う人も居るわけで、人の意見は様々。

たかだか、CMの台詞、女優さんの台詞です


ただ、人の意見を鵜呑みにするのはよくないことは確かで、自分の実体験を元にして物事は判断しないといけない。

子供の頃に、ナマハゲを実体験している男鹿半島育ちの自分としては、当然ながら、「あんなの神様なわけないじゃん」と思うわけです。

それは実体験から来る判断。

誰になんと言われようと、あれを神様だなんて、あんた知らないだけだよ、って。
CMごときに、簡単に騙されてんじゃないよ、って。

人の心を写してきたナマハゲ


なまはげに限らず、魑魅魍魎の類は全て人の心の写しです。
その時々の人々の求めに応じて、それを写し取るようにその存在を変えていくのが常です。

なので、今のナマハゲと、自分が子供の頃のナマハゲは違いますし、さらにもっと前(明治前期)とか、ずっとずっとずーっと前(菅江真澄が記録を残した頃)とかだと、今とはぜんぜん違う姿だったと想像できます。

確かめる術は、もう文献や手記に頼るしかないわけですし、当時を体験することはもう出来ません。

以前の(少なくとも自分が子供の頃の)ナマハゲは、話し合いの通じない暴力装置が自分に対して強力な影響を及ぼしてくることを、毎年思いしらされる存在でした。
当然ですが、大晦日は毎年、いやでいやで堪らない日です。

大人になったからと言って、あれが良かったコトかどうかを思い返すコトはもう出来ませんが、かつての男鹿半島にはあれが必要だったのか…と考えることはあります。

話し合いの通じない暴力装置とは言いましたが、それが示すモノは、無慈悲な自然災害や、天候不順による不作による飢餓。

人の力ではどうしようのない出来事が、自分たちが生きてるうちに必ず起こって、それによって奪われる命がある。

人間は、可能な限りの手は尽くすことはできるが、奪われる命に対しては、何をすることもできずに、ただ耐えることだけを強いられる。

そのコトに対して、どう考え、どう感じたのかは今となっては知るよしもないですが、そうした暗屈した思いが重なった末に形作られたのが、かつてのナマハゲの姿だったと、考えてはいます。

まとめ


吉永さんの台詞は、単に観光用のキャッチコピーなので、これに対してどうこうと言うコトはないです。

実際、地元の観光に携わる人、教育に携わる人にとっては、「ナマハゲは神様」という設定は扱いやすいモノですし、集落でナマハゲを取り仕切ってる人達の間でも、ナマハゲを神事と信じてる人が多いように思えます。

大事なのは、どんな事柄であろうとも、自分の体験や経験から判断して欲しいというコトです。

同じ体験をしても、人が感じるコトは様々で一つの意見に定まるものじゃないです。
逆に、皆が同じ意見を持っている事柄っていうのは、それだけ実体験に基づかない、言葉だけの薄っぺらなモノと言えます。

その意味では、ネットやCMの情報なんて非常に薄っぺら。
ホントかウソかも分からないですし、もしかすると余所からの情報をコピペしてきただけで、それがあとこちに増殖してるだけかもしれません。

Google先生も、情報を持って来てはくれますが、真偽を判定してくれるわけではないですので。

ナマハゲが何者であるか。

自分で男鹿半島に来て、可能な限り動き回って、話を聞いて、できれば大晦日の集落のナマハゲを体験して欲しい。

その上で、ナマハゲが神様に見えるなら、きっとそれは正しい判断です。
その判断は、あなたの実体験に基づいた、あなただけの判断ですから。

以上。
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