ネットで見かけた、ブロガーのちきりんさんの記事を読んで、思うトコロありましたので、一本書きます。



嫌いな科目を無理を学ぶことはないじゃない


原文はリンク先を確認していただくとして、主張の骨子は、小さい頃に理系科目に適正がないことが分かれば(7割の人間がそうだと主張)、その後の中高等課程において専門的な理系教科を教えることはせずに、実用的な活用法だけを教えたほうが効率もよいし、学生に要らぬ劣等感を与えることもないし、いいんじゃない、というもの。
実際、その後に専門的な理系科目を学んだ3割の人間が、先端技術を支えていくのだから、それで問題ないという主張。

教育にはそぐわない考え方


もちろん、この主張はツッコミどころ満載で、いろんなところからの反論も出てますので、興味がある方は検索してみてもらうとして。

自分も、この主張には反対です。
成長する子供の比較的早期の一時点の評価をして、その後の進路を決定するというのは、赤子が大人になるまでの成長過程全体を見渡した場合には、正しくないケースが多々あると考えます。

例えば、小学生の頃、算数も理科も大嫌いだった子が、中学生になってから、眼鏡で美人の理科教師に出会って、一転して科学の世界にはまり込み、その後にノーベル賞を受賞するようなことだってあるかもしれない。

そんな可能性が低いことを例にするなと言われるかもしれないですが、そもそもノーベル賞を受賞することが自体が非常にレアケースであるのだから、その成長過程に他人には思いもつかない動機があったって不思議ではない。

そして、その一人のノーベル賞の受賞者によって、人類全体の幸福がもたらされるなら、他の子が嫌いな科目で四苦八苦するぐらいのことは受容すべきだと考えます。

そのくらいのことは十分分かっているのでは?


じゃぁこの記事の内容はくだらない駄文で、かのブロガーさんも、もうたいした文章は書けなくなったのかと言われれば、どうもそうではないのでしょう。

こうした反論が出ることはわかりきった上で、あえて極端な意見を書くことで、その反論を楽しんでいたフシがあると読んでいます。

よくある反応に
「そうそう、理系科目なんか何の役にも立たなかったから、私も賛成します」
という両手を上げて賛成する意見。
学校教育を、役に立つから学ぶとか、役に立たないから学ばないとか、そういう基準でモノを考える方々の短絡さ。
学ぶというのはメリット・デメリットを勘案する以前にスタートするものですし、それがどの時点で向き、不向きが決定できるかは誰にもわからないことです。
100人が学んでいて成功者が一人だとしても、それが成果になることは世の中に普通にあることです。

他にも
「技術者にとっては、学校で学んだ技術は十分役に立っている」
という技術者サイドからの反論。
ただし、コレに関しては、それは専門技術を学ぶ3割の人間にしか当てはまらず、大多数の7割の人間には不要な技術であり、この反論には取り合わないという解答を返してました。

もっとも、7割の人間が専門的な理系教育を受けない社会というのが、果たして専門的な技術に基づいた意見を尊重する社会になるのかどうかは、少し考えれば分かることです。
実際、今の世の中は、この状況に近いですし。

論理的な思考を拒絶する社会


理屈ではそうするべきではないと分かっているのに、感情に従って本来取るべきでない決定する、というケースは多々あります。
世の中で発生する問題の多くは論理的な思考によって解決できるものが多いですが、実際には各人の感情的判断が優先されます。
例えば、全員が論理的な思考をすれば風評被害なんてものは発生しませんですし。

強烈な皮肉


結局のところ、ちきりんさんが書いたことは、現代社会への皮肉だと読みました。
論理的な判断を捨て、感情的な判断で動く人間によって形成されている社会を、ある意味反対の立場から書き出し、映し出すことが目的なのだろうと。

ツイッターあたりで、どんなメンションが返されたのかは面倒なのでチェックしてませんが、返された意見の中にちきりんさん的に面白い意見があったのかどうかは、本人のみぞ知るです。
まぁ、自分的には、こう読み解きましたということで一文書かせてもらいましたので。

以上。
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