朝のラジオで「何も信じていない人は、やがて何でも信じてしまう」というような趣旨のコトを話していて、あぁ、なんとなく納得。

不安を解消するためのツール


別にこれは最近の傾向じゃなくて、人って「何かを信じていたい」欲求みたいなものがあって、それが満たされない人は精神的に不安になる。

常に「信じられる何か」を求めて彷徨ってしまう。

自分の場合は、「自転車を通じた自分の体とのフィジカル」だったり、「科学技術」だったり、けっこうベースになる部分ははっきり認識できてる気はする。

でもって、これって自分の体そのものと、長い積み重ねの中で検証された学問なので、あんまりフラフラしない。
体にしても科学にしても永遠に普遍ではないけど、変わる時には、それなりの時間が必要なことを考えると、人生という時間的スケールに対しては、ちょうど良い気がする。

なんで、トンデモ言動に出くわした時に、まず懐疑的な見方で検証をかけるのが習慣。
今までの自分の基準とかけ離れた話には、人間、そうそうは乗っていかないです。

自分の基準を持たない人


ところが、自分の中にそうした基準になるものが無くて、常に「信じられる何か」を求めてる人にとっては、第一印象で「信じられる『都合のよい』何か」に見えたりしたらもうあとは…ねぇ。

何を信じるかは大人なんだし、各時が自分で責任もっていくしかないんだけど、症状が悪化して、トンデモ言動を広めたり、周りの人に勧めたりっていうのが始まると、ちょっともう近づきがたくなる。

そういう意味では、よりどころの無い人にとっては、いわゆる古典的な宗教というのは、人心や世の中を安定させるにはちょうど良いスケールとして世界に普及したのかなと思えてくる。

自分はあんまり神様、仏様とは親しくない(なぜか僧侶の知り合いは多い…)んですが、代替になるスケールが別にあるというコトで、うまくバランスがとれてるんでしょう。

人は信じない


でもって、一番やっかいなのは「人を信じる」こと。

人って、全ての意見が完全に一致するということは全体に無くて、仲のよい友達であっても、言葉にする意見の一部がやや合致するかな…っていう程度が普通。

それなのに、誰かを全面的に信じるというのは、大抵の場合は自分で思考したり、悩んだりするのを放棄してるだけで、只の逃避でしかない。

自分の生き方の指針を常にだれかに示してもらえるので、楽なんですけどね。

あの人の、この部分、あの言説に関しては信用できる…っていう程度にしとかないと、自分の人生が台無しになるので、そのへんご注意くださいませ。
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