今日は、ナマハゲ行事の衰退について、いろいろ思うことなど。

ナマハゲの役割


自分は民俗学の専門家というわけではないので、専門的な分析とかはもちろんできないわけですが、それでも男鹿に生まれて、男鹿に育った人間としては、いろいろ思うことがあります。

特に、自分が子供だったころ、あれほど荒々しくて、乱暴で、傍若無人で、人の家のモノを壊してまで暴れまわったいたナマハゲが、かくも大人しく、ともすれば子供に対してフレンドリーな存在になってしまってるか、というのは、ちゃんと認識しておかねばならないかと思うわけです。

自然災害に耐え忍んだ時代


まだ日本が先進国なんて呼ばれる前の時代、地震や津波、台風など、そうした自然災害において死者が出たとして、それを誰か人のせいだと考える人は誰もいなかったわけです。
しょせん、人間なんか自然の前では無力であって、そこにはただ耐え忍び、必死で生きながらえる努力をするだけで、たとえ死者が出たとしても、それは受け入れなければならなかった時代というのが、確かにあったはず。

昔のナマハゲ行事の中には、そうした自然の脅威や、理不尽な生き死につながる部分が確かにあったのではないかと考えてます。
自分が、子供の頃ナマハゲに感じていたのも「理不尽な暴力」でした。

安全に守られた時代


翻って、さまざまな防災対策や工事が行われて、歴史上、最も安全な国土に暮らしていると思われる今の日本人。
2年前の原発事故やら、集中豪雨による土石流やら、本来であれば、人間のチャチな生成物が、大自然の前に為す術なく
破壊されただけのことなのに、責任は誰にあるのか…という議論が行われることがあります。

あらゆる責任が所在を求められる


話がちょっと逸れますが、自分は2年前の原発事故の責任が政府や東電にあるとは考えていません。
彼らは、人間の基準で十分に安全なモノを作り出したつもりだったのが、それを上回る自然の猛威に直面し、為すすべなく破壊されただけのコトです。

ただし、政府や東電には、事故の責任はなくても、住民の暮らしを復旧させる責任はあります。
いわば、自動車事故で、事故を起こした車が逃げ去ったとしても、その場に居合わせた人が、けが人の救助を献身的に行う…というあたりまえの話しです。
今の議論だと、事故を起こした責任と、復旧させる責任をごちゃ混ぜに考えるが故に、事故の責任自体を限定的に規定してしまっています。
結果、原発事故で不利益を被った方々に、2年を経過しようとした現在でも問題はようとして解決をみていません。

理不尽な暴力の象徴


論を戻しますが、自然災害をはじめとした「理不尽な暴力」においても、誰かの責任を求めるような時代になって、ナマハゲはその本来の役割を終えたのだと考えています。
「理不尽な暴力」に曝された人は、訴訟なり、陳情なりで、被害の回復を要求する時代ですので、それを耐え忍ぶコトは必要とされません。

おそらく今の時代、「理不尽な暴力」としてのナマハゲを継続してしまうと、子供がトラウマになってしまったことに対する訴訟が行われるはずです。
で、おそらくはそれは訴訟を起こした子供(の親)が勝訴することでしょう。
こんな時代、とても「理不尽な暴力」としてのナマハゲは継続できません。

模索するナマハゲ


本来の役割を終えたナマハゲは、衰退の一途をたどっているのは間違いなく。
様々な人たちが、なんとか継続をを求めて動いたらっしゃいますが、そこに、どのような意味を持たせるのか、それはナマハゲでなければならない理由があるのか、という本質的な部分の議論が抜けているのであれば、継続は難しいのではないかと思います。

継続に向けて、いろいろな模索が行われいる"現代"ナマハゲ。
この先、どのように役割を変えていけるかにかかっているのだと思います。
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