阪神淡路大震災から、明日でちょうど20年。
震災や復興のお話がいろいろとメディアを賑わしてる。

東日本大震災からも、もうすぐ4年たとうとしてる。

ふと、都市が震災に襲われた時と、田舎が震災に襲われた場合では、その後にたどる道は、あらゆる意味で異なるよなぁ…と考える。

都市と田舎の”復興”の差


神戸は都市であり、ヒトとカネが集中することで生きてきた。
もう一度、町を作れば、そこでカネが廻り、ヒトが動く。
復興のためにカネが動けば、そこにヒトが付いてくるという実績と期待がある。

他方田舎ではどうか。

復興のためのカネが動くのは同じなのに、そこにヒトが付いてこない。
建設作業員も余所からの出稼ぎ頼み。
ヒトが付いてこなければ、そこに町並みが出来ても町とは言わない。

この差はなんだろうか。

実績の差


自ら稼ぎを生み出してきたか否かの差。
実績の差なんだと思う。
もう少し具体的に言うと、住んでるヒトの質と数の差だ。

これは別に田舎のコトを悪く言うわけではなくて「田舎=人口密度が低い」という定義からすれば当然の話をしてるだけ。
田舎という場所は、カネを稼ぐには不向きだ。

カネを稼ぎたいヒトは、カネが回る場所に、カネを投資する。
そこに住むヒトが多ければ、カネを回そうとするヒトの数も多い。
カネが回れば、他のヒトも動くという理屈で、都市は発展する。

田舎にはそれがない。

税金を使って、インフラや建物を作るのは投資ではなくて配置。
そこでカネが回り始めなきゃ、ヒトも離れて行かざるを得ない。

経済を基本にして考えると、同じ規模の災害に襲われても、今の日本という条件なら、都市と田舎では復興の意味あいは全く異なる。

その意味では、神戸が成し遂げた復興と、東北が目指す復興の姿を同じような視点で見ることはできない。

他人事じゃないんだよね


災害に襲われた後のコトっていうのは、ここ男鹿半島でも他人事じゃない。

そろそろまた大きな地震に襲われてもおかしくない時期に入ってきてるし、その時になって、先のないヒトのいない町を目指すようになっては、それこそ消滅するしかない。

都会と田舎の違いをよく考えた上で、何を目指すのかを今から考えて準備しておかなきゃいけない。

田舎の適正規模


田舎の適正な規模、適正な産業、適正な生活っていうのは、今一度考えないといけないよね…っていうのが、最近のテーマの一つ。

それは災害があっても、なくても同じ大事なテーマ。

都会と同じような便利さだとか、立派さだとか、刺激の多さだとか、それを基準にしてしまうと、田舎では、よほど補助金だの交付金だのをいただかないと成り立たない。
もちろん、今やそんな意味不明のカネがいつまでも田舎に流れてくる保証はない。

人口密度が低いということは、一人当たりの人間が活用できる土地や余裕が、桁外れに大きいことをもっと意識するべきなんだと思う。
都会のように、自宅と職場(もしくは学校)以外に居場所がないような生き方をする必要は全くない。

一人当たりが活用する大きさを広げていくコトが出来れば、人口が減っていくコト自体はさしたる問題でもない。
ちょっと抽象的な表現だが、もっと広い生き方を模索して、構築してくべき。

「都会の劣化コピーみたいな田舎」なんか誰も求めてないから。
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